2010年11月29日月曜日

Tさんのこと

                                           Casa Violeta (Tulum)








その昔、働いていた職場に、Tさんという人がいた。 

オフィスで働くと必ず付いて回る、面倒くさい人間関係の中で、Tさんはいつも一人ひょうひょうとして、明らかに他の人とは次元の違うところに存在しているような、そんな感じの人だった。 

どこの組織にいっても存在する、微妙な上下関係や出世を巡っての足の引っ張り合いのある中で、彼はそんなことなど、全くきにも止めないような様子で、ただの一介の契約の身の上である私にも、しごく自然に、そしてざっくばらんに話してくれて、私はそんな彼のことが好きだった。 

その頃私は横浜に住んでおり、通勤ルートが似通っていたせいか、彼とはよく電車で一緒にもなった。 

会うたびに、何を話したのかはよく思い出せないけれど、表面的な付き合いが苦手な私としては、ちょくちょく電車で顔を合わせ、小一時間も話さなければならないことなど、煩わしさ以外の何物でもなかったはずなのだが、彼にはなぜかそれを感じなかった。 

恐らくそれは、彼が人に殆どプレッシャーというものを与えない人であり、また、彼自身が独特の世界観の世界に住んでいて、人のことを詮索したり、品定めするようなところがまるでなかったからだろうと、今にして思う。 

メキシコの民族舞踊が好きで、自ら同好会を作って踊ってるんですよ、とうれしそうに話してくれた。 

週末の午後、職場の入っている有楽町のビルの廊下を使って練習をしていて、それに対して一家言持った人もあったかもしれないけれど、それがなんとなく公認されていたあたり、やはり彼の純朴な人柄によるところが大きいのではないかと思う。 

そんなある日、彼が職員を対象に無料でスペイン語を教えるというアナウンスがあった。 

女性職員の多くは喜んでそのクラスに参加したし、私も数回は顔を出しては見たものの、元々大勢の人の中にいるのが苦手だっとこともあって、足はだんだんと遠のき、ついには行かなくなってしまった。 

ある日、通勤途中でTさんに、”どうしました?”と聞かれ、”いや〜、ちょっと予定が合わなくなっちゃったもので。”と誤摩化すと、何を察したのか彼は、”じゃあ、他の日の開いている時に、もしよかったらやりましょうか?”と相変わらず親切だった。 

何しろメキシコが大好きで、自分の愛する国を理解してもらうために、そのルーツとなる言語を教えることは、彼に取って、喜び以外の何物でもない、といった真っすぐな情熱だった。 

それじゃあ、といって、それからしばらくマンツーマンで教えてもらっていた。一介の契約の身の上である私に対して、そんなことをしてくれる必要などもちろんなかった訳だと思うけど、ありがたくその好意に甘えることにした。 

結局私はその職場を2年で辞め、いくつかの転職を経て、最終的に、シンガポールまで働きに出る機会を得た。
兼ねてから、外国に住んで働いてみたかったせいもあって、その期間5年は、殆ど日本のことは忘れて、現地の生活を多いに堪能していたのだが、帰国して、たまたま当時の職場の人と会う機会があった時に、突然彼の訃報を聞いたのだ。

シンガポールでの生活が充実していて、楽しいものだっただけに、戻ってきて直後に、その訃報を聞いたことは、自分に少なからずも衝撃を与えた。


あんなに良い人が、どうしてそんなに若くして、命を失わねばならなかったのだろう?
メキシコが大好きだと言っていたけれど、その後、メキシコを訪れる機会はあったのだろうか?
そして、あの時話してくれた、小さなお子さんは?そしてご家族は・・・?


考えれば考えるほど、無償に悲しくて、そして、なす術もなかった。 










その半年後、私は地元で、留学生による語学教室を見つけ、インドネシア語の受講申し込みをすることにした。
当時、私はバリに移住することを漠然と考えていて、現実になった時のことを考えて、また、シンガポール時代に、ちょくちょく彼の地を行き来していた事もあって、片言で使っていた言葉を、少しでも忘れないように、と思ったのだ。


ところが受付の人を見るや否や、なぜか自分の口を付いて出た言葉は、”すみません、スペイン語のクラス、開いてませんか?”いうもので、一瞬の間の後、”すみません、もう一杯なんですよ。”と言われ、無性に恥ずかしくなった。
そして同時に、自笑した。”馬鹿だなぁ。今更スペイン語なんて習ったところでどうするんだ。”と。 

そして、その半年後。
私は運命の悪戯で、メキシコに住む、今の相方と知り合った。


当時の自分は、”メキシコなんて、そんな不便で遠いところ・・”、と思っていたし、あまりにも非現実的過ぎる、とも考えていた。


ところがそんなある日、忘れていたはずのTさんが、夢の中に突然現れた。 

”あ、Tさんだ、懐かしいな”、と夢の中の自分は思い、声を掛けようとするのだが、彼はこちらに向かって静かに微笑むだけで、そんな彼の言葉を待っているうちに、すーっと目が覚めて、そこには不思議な感覚だけが残っていた。

”今のは何だったのだろう?”と思い、”あぁ、メキシコ行きを躊躇している私に、はっぱを掛けにきてくれたんだろうな”、と解釈して、それも励みとなって、取りあえず、下見に行く事にした。
 
そして、下見の最終日。空港へ帰る車中で私は交通事故に合い、飛行機をキャンセルせざるを得ない状況になったのである。


頭の打ち所も悪かったのかもしれない。何を思ったか、私は、帰国してすぐに、職場に戻るや否や、退職することを告げ、インドネシアはおろか、日本から最も遠くて行きにくい、ここ中米へ、荷物をまとめて来てしまったのである。

正直、来なければよかった、と思う事がたくさんあった。 
明らかにミスマッチだったな、と思う事もしばしばで、あきらめが肝心、と悟った今では、ストレスも以前のようにたまらなくはなってきたが、その一方で、自分に本当に居心地の良い場所が、他にあるように思えてならず、また時期が来次第、模索の旅に出たくてうずうずしている。 

・・とそんなことを、人に話しているうちに、ふとあることが頭に浮かんだ。 

もしかしたら、Tさんは、私の目を通じて、彼が見たかった世界を、私と一緒に見ていたのではないかしら? 
”いつか住んでみたいんです。”そう言いながら、若くして逝ってしまった彼は、天国のむこうから、ふと私のことを見かけて、”あ、あの子だったら、代わりにやってくれるかも!”そう思って、私に合図を送ったのでは? 

もしそれが本当だとしたら、私が経験していることは、もはや私一人のものではなくなって、学んだこと、出会った様々な人々や感動は、少なくとも彼と共有してきたことになる・・・そう思ったら、急に肩の力が抜けたような気がした。

回り道かもしれないけれど、これで良かったのだ
私は、私にしかできない貴重な体験を、ここで、今こうしてしているのだから。


そして、この貴重な経験をするきっかけとなってくれた彼、人々にひたすら惜しみなく持っているものを与え続けてくれた彼に、今改めてお礼が言いたい。 



ありがとう、Tさん。 


あなたに遠い昔教わったスペイン語は、今ここで、こうして花開いています。
とても小さな形ではあるけれど・・。


そして、片言のスペイン語と母国語を通じ、私はこの国の子供達と向き合い、時にこんなメッセージを送ることもできるのです。


人と何かを共有できることが、どんなに幸せなことかを。
時間は掛かっても、夢は必ず叶うということを。


すべてはひとつであると、私はしんじています。






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2 件のコメント:

  1. 過去の色んな伏線が交錯して
    今の自分がいるのかもしれないね。
    現状が嫌で逃げたくなる気持ちよく分かるー。
    私は、最近になってようやく
    「結局、逃げても同じではないか」と思うようになってきた。

    今の状況が最悪で、他の色んな可能性を考えるのだけど、
    別の場所に行ったら行ったで、また別の嫌な状況が生まれる。
    このまま逃げてたら何も残らない。
    ここで頑張って状況を良くしたら、
    次に行ってもうまくいくのではないか、と。

    地球の上で生きてる場所は違うけれど、
    こうやって頑張ってる友が居ると思うと、
    私にも勇気が出ます。
    ありがとう!お互い頑張りましょう。

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  2. 幸せは自分のうちにあると、人はよく言うよね。
    それって、ほんとうだと思うし、じゃぁ、その幸せにたどり着くにはどうしたらいいかと考えた時に出た答えは、自分で自分を幸せにするってこと。

    まぁ口でいうのは簡単だけど、これがまた難しい。
    シンプルなことほど、奥が深くて難しいよね。

    少しづつ、進んでいけたらいいなって、思ってます。
    poco a poco.

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